2015年3月18日水曜日

他を愛する心 その5 人間はDNA支配か?




さて、先回、私たちは一人の人間のように思っているけれど、それは遺伝子の策謀で、実は私たちの体は単なる遺伝子の乗り物であり、「こうしたい」と思うのは遺伝子が自分に有利になるように体の中で指令している、つまり私たちはエイリアンが体の中にいて、その通り動いている人形に過ぎないというドーキンスの考えを紹介しました。

だから人間は利己的な生物である。無理して他人のためなど考えても無駄だということになっています。ところが昔から「どうも生物は利他的なところもある」とか、「自然淘汰だけではとうてい説明できない形質を持っている」というような疑問がありました。

この疑問は進化論、自然淘汰、DNA、そして利己的遺伝子と「強者が残る」という論理が整理されればされるほど、反対のことも明確になってきたのです。特に、生物学の主力が「目に見える大きな生物」、つまり三葉虫とか恐竜のようなものを観察していたのに、それが微生物を観測するようになって様子が変わってきたのです。

地球上には目に見えない微生物も含めて、何十億という生物がいるようです。今でも新種が次々と発見されているのですから、全体像は定かではないのですが、なにしろ膨大な数の生物がいることは確かです。

一般的に弱い生物は環境の悪いところに押しやられ、強い生物が良い場所を締めてしますが、それにしても種類が多すぎます。明らかに同じようなところに戦ったらどっちが勝つかははっきりしているのに、徹底的に戦わず、複数の生物が一緒に住んでいます。

もし進化論から利己的遺伝子の考えが正しく、強いものが弱いものを駆逐することによって生物が進化し、ついに人間まで誕生することになったなら、この世はある環境下ではある生物が一種類になってしまいますが、事実はものすごく多い種類の生物が生息しています。ということは「弱いものは絶滅していない」ということを示しています。

ここでもう少し深く考えてみたいと思います。一口に「強い」、「弱い」と言っても、生物は相互に関係していますし、まして動物はCO2を食べることができないという制約があり、どうしても植物と一緒でなければ生きていくことはできません。

たとえば動物にとっては、「CO2をどんどん食べる食欲旺盛な植物だけれど、毒もないし、防御もしていないので、食べやすい」というのは「弱いかも知れないが、都合の良い植物」ですから、それを淘汰するということはありません。

でも、イボタとイボタ蛾のように蛾が食べようとすると毒物を出すような植物は強いけれど、歓迎されません。

これは動物相互にもあって、閉鎖された空間の中にシカとオオカミを一緒に住まわせますと、オオカミはシカをとって食べようと思えばいつでも食べられるのに、決して絶滅するようなことはせず、「シカとオオカミの両方の最大幸福状態」にすることが知られています(ロイヤル島のシカとオオカミの関係)。

つまり、生物は個体として「利己的」ではなく、もっと広い視野で「利己」なのか、それとも生物の性質の中にもともと「利他」を含んでいるのかはさらに難しい問題です。

(平成27年2月26日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ




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