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2015年5月21日木曜日

色覚障がいの父が初めて色を感じた瞬間




色覚障がいのある父親に届いた、矯正メガネ。母親は子どもたちにカラフルな服を着せ、父親がメガネをかける瞬間をカメラに収めました。
初めて色のついたわが子を見た瞬間……。
(出典:カラパイア



2015年3月18日水曜日

他を愛する心 その5 人間はDNA支配か?




さて、先回、私たちは一人の人間のように思っているけれど、それは遺伝子の策謀で、実は私たちの体は単なる遺伝子の乗り物であり、「こうしたい」と思うのは遺伝子が自分に有利になるように体の中で指令している、つまり私たちはエイリアンが体の中にいて、その通り動いている人形に過ぎないというドーキンスの考えを紹介しました。

だから人間は利己的な生物である。無理して他人のためなど考えても無駄だということになっています。ところが昔から「どうも生物は利他的なところもある」とか、「自然淘汰だけではとうてい説明できない形質を持っている」というような疑問がありました。

この疑問は進化論、自然淘汰、DNA、そして利己的遺伝子と「強者が残る」という論理が整理されればされるほど、反対のことも明確になってきたのです。特に、生物学の主力が「目に見える大きな生物」、つまり三葉虫とか恐竜のようなものを観察していたのに、それが微生物を観測するようになって様子が変わってきたのです。

地球上には目に見えない微生物も含めて、何十億という生物がいるようです。今でも新種が次々と発見されているのですから、全体像は定かではないのですが、なにしろ膨大な数の生物がいることは確かです。

一般的に弱い生物は環境の悪いところに押しやられ、強い生物が良い場所を締めてしますが、それにしても種類が多すぎます。明らかに同じようなところに戦ったらどっちが勝つかははっきりしているのに、徹底的に戦わず、複数の生物が一緒に住んでいます。

もし進化論から利己的遺伝子の考えが正しく、強いものが弱いものを駆逐することによって生物が進化し、ついに人間まで誕生することになったなら、この世はある環境下ではある生物が一種類になってしまいますが、事実はものすごく多い種類の生物が生息しています。ということは「弱いものは絶滅していない」ということを示しています。

ここでもう少し深く考えてみたいと思います。一口に「強い」、「弱い」と言っても、生物は相互に関係していますし、まして動物はCO2を食べることができないという制約があり、どうしても植物と一緒でなければ生きていくことはできません。

たとえば動物にとっては、「CO2をどんどん食べる食欲旺盛な植物だけれど、毒もないし、防御もしていないので、食べやすい」というのは「弱いかも知れないが、都合の良い植物」ですから、それを淘汰するということはありません。

でも、イボタとイボタ蛾のように蛾が食べようとすると毒物を出すような植物は強いけれど、歓迎されません。

これは動物相互にもあって、閉鎖された空間の中にシカとオオカミを一緒に住まわせますと、オオカミはシカをとって食べようと思えばいつでも食べられるのに、決して絶滅するようなことはせず、「シカとオオカミの両方の最大幸福状態」にすることが知られています(ロイヤル島のシカとオオカミの関係)。

つまり、生物は個体として「利己的」ではなく、もっと広い視野で「利己」なのか、それとも生物の性質の中にもともと「利他」を含んでいるのかはさらに難しい問題です。

(平成27年2月26日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ



2015年3月17日火曜日

他を愛する心 その4 ダーウィンと利己的遺伝子



この「他を愛する心」というシリーズは、今、私たちが健康でいたいとか、長寿とか、さらには認知症になりたくないとおもっていて、それには「自分の生活や生き方、ストレスを改善しよう」としていますが、それは違うのではないか、私たちが健康だったり、幸福になるのは、自分が健康に注意するからではなく、あたしたちの愛が他に向かっている時ではないかと思うからです。

それを単に感覚的ではなく、しっかりとした根拠のある論理を作って、普遍化しようとしているのがこのシリーズです。これまでの3回はやや卑近なことから始めたのですが、ここから少し科学的な内容にはいります。

人間が「利己的」な生物であるか、それとも「利他的」であるかという問題を科学的にはっきりさせたのが、生物の進化を研究して「進化論」を著したダーウィンと、それから100年ぐらいたって、生命の元を明らかにしたDNAの解明者ワトソンとクリック、そして、きわめて明確に進化の内容を整理した「利己的な遺伝子」のドーキンスでした。

まずダーウィンが「自然淘汰」、つまりより強い方が勝つという原理によって生物が進化してきたことを示し、それをフリースという学者がオオマツヨイグサの突然変異の研究で進化の具体的な方法を示しました。つまり、生物は生活しているうちに突然変異をおこし、まれにその中で選りすぐれた性質を持つ突然変異をした生物が残る・・・これを繰り返してアメーバのような生物から人間まで進化してきたという理論です。

この進化論は、ワトソンとクリックのDNAの構造解析で、命とはどういうものか、生物の形がどうやって決まるかがわかり、さらに、放射線などを浴びてDNAに変化が起こり、その変化がより強くなる方向の場合に新しい生物が競争に勝って進化が進むという、それまでの突然変異という現象論に加えて具体的な化学的内容も解明されました。

DNAの構造解明とその影響の研究で、生命の誕生や生物の進化はこれでほぼ完璧に説明できるように見えたのです。事実、イギリスにドーキンスという学者が現れ、鋭い観察眼で「利己的な遺伝子」という大著を著し、それによって生物そのものとその進化はすべて明らかになったと考えられました。

「利己的遺伝子」という書籍は大著ではありますが、とても面白いものです。

ドーキンスはイギリスの大学の先生で、学生と飲みながら議論するのが好きで、その議論の中から総合的な考え方がまとまったと言われています。おどろくことに、「生物はその体の中にある遺伝子の乗り物に過ぎない。すべては遺伝子によって操られている」というのですからびっくりします。

たとえば、私は一人の人間のように思っています。でもドーキンスに言わせれば、本当は一人の人間でも何でもなく、私の体の中にある遺伝子が「生き残って次に子孫を残すために作った乗り物」に過ぎないというのです。私の親の体が劣化しないうちに私を産み、そのときに遺伝子は親の体から私の体へと移動する。私を産んだときの親の体はかなり劣化しているので、その命がつきると遺伝子も死んでしまうので、安全を期して親が40歳ぐらいまでに乗り移ってしった、単にそれだけというのです。

そして、私の体に乗り移った遺伝子は、まず私が成長すること、そして適当な時期に女性が好きになって子供を作ることを計画します。私は単に女性を見るとムラムラとくるとしかわからないのですが、それは私の中の遺伝子がそうさせているのです。

つまり、人間は40歳ぐらいまではまあ安心ですから、遺伝子は悠々と計画を練ります。ます若いうちは勉強させ、運動して体を鍛えさせ、そして女性が好きにならせと順序通りさせる、すべて遺伝子の策略である・・これがドーキンスの考えです。

おいしい料理、快適なスポーツ、愛する彼女、すべては遺伝子のダマシなのですから、利己的遺伝子を知ってしまうとむなしい気持ちもしますし、どうせ自分の体の中のエイリアンが指令しているだけだ、それに反することもできないのだから、いっそ、遺伝子の指令通り、快感を味わった方がよいと自暴自棄にもなります。

ダーウィン、フリース、ワトソンとクリック、そしてドーキンスと続いた「自分の遺伝子のために生きている。だから人間の本質は利己的だ」という完璧な考えと、事実、アメーバ、三葉虫、恐竜、そして人間と順序よく進化してきた生物の歴史から、この理論は完璧のように思われてきました。

でも、どうやら間違っていたのです。

(平成27年2月23日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ



2015年3月5日木曜日

他を愛する心 その3 愛と風力発電



かつて「石炭を焚かなくても水の流れを利用して電気を作ることができる」といって日本でも盛んにダムと水力発電所が作られたことがありました。私の小さい頃、ダムは日本の発展の象徴でしたし、水力発電所は自然と調和した環境によいものとして大いにもてはやされたものでした。

たとえば静岡県の佐久間ダム、富山県の黒部ダムなどは、戦後の復興とともに電気の需要が高まった頃、本当に救世主のようなものだったのです。そして豪快に放水されるダム、日本の自然と見事に調和している人工湖、電気、農業用水、洪水防止、観光など何をとってもダムと水力発電所は「よい子」のように思われたのです。

ダムを建設するときには付近の住民を集めて公聴会を開きます。たとえば黒部ダムの場合は、ダムを造っても近くの住民にメリットがあるわけでもなく、関西電力はダムで作られた電気を金沢の方に送るのですから、近くの人から見ればダムだけができるということでもあるからです。

そこで電力会社は、国の発展のため、洪水がなくなる、観光産業が興るといろいろなメリットを強調して地元の賛成を得るということをしていました。

でも、私は15年ほど前の本に「公聴会には魚のお母さんを呼ばなければならない」、「魚のお母さんは「私には育ち盛りの子供が2匹います。もしダムができたら水が涸れて子供たちは死んでしまいます。人間はテレビを見ることができるようになるからよいのでしょうが、私たち親子の生死がかかっているのです」と訴えるでしょう」と書きました。

ダムと水力発電所は人間にとっては電気が増え、観光もできるのでよいことですが、川という自然は人間のためだけにあるのではありません。太陽の光が海水面を照らし、水が蒸発し、それが上空で雲となり、風で流されて山にぶつかり、雨を降らせ、それが川となって流れます。

エネルギーで言えば、太陽のエネルギーが水のポテンシャルエネルギーになり、さらに川の運動エネルギーに転換されるということになります。そのエネルギー、元々は太陽の光ですが、それを利用しているのが魚であり、河畔の樹木であり、川を転がる小石でもあります。鳥がさえずるのも、平野ができるのも、すべて太陽のエネルギーが変わったもので、それを自然は余すところなく使っているのです。

人間から見ると川は無駄に流れているように思いますが、自然は結構、節約家なので、川のエネルギーはとことん利用されています。そこに人間が割り込むのですから、人間が電気を横取りする分だけ自然は痛みます。

それが明らかになってきたのはダムを造ってから20年ほどたったときでした。日本ではダムの下流の自然が破壊され、ダムには砂がたまってあれほど苦労して作ったダムも短い寿命であることがわかってきました。エジプトでは世界の注目を浴びたアスワンダム、アスワンハイダムの影響でナイル川と地中海のエネルーバランスが崩れて6000年も続いてきたナイルデルタの農業が壊滅しました。

そこでやっと人間はダムを造るというのは人間の都合だけだったことに気がつきます。私が15年ほど前に書いた本に「風力発電は自然を破壊する」という一節があり、当時、社会から「そんな馬鹿なことはない。風から電気をとっても風は変わらない」というばからしいバッシングを受けたものです。

当時のフジテレビのキャスターが地上波を使って一介の学者だった私を「売名のためだ」とテレビで批判しているのを聞いたのもその頃でした。でも、風もまた太陽エネルギーの変形で、風が吹くから樹木の葉から水分が蒸発し、地面が乾き、花粉が飛び、鳥が舞うことができるのです。そして風から電気になるエネルギーをとれば「エネルギー保存則」で風は弱まり、樹木は枯れ、地面は湿気るのです。

ここでは二つの例を挙げましたが、私たちは頭でっかちになり、それも中途半端な頭脳の理解と判断で、自分によいことを「自然や他の生物も同時にメリットがある」ととんでもないことを考えるようになったのです。それはおそらく人間の本来の心とは違うので、頭脳で考えた利己的判断と、人間という命が感じる利他的な判断のずれが、現代人の最大のストレスになっているのでしょう。

(平成27年2月20日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ



2015年2月21日土曜日

他を愛する心 その2 愛とダイエット




(最初のところは温暖化の話に似ていますが、このシリーズは「愛」というものを調べる目的です。今回は若干クールダウンしていますが。)

人間は不完全な生物で、たとえば「イネ」と比較するとイネは自分で空気中からCO2(二酸化炭素)を吸って、自分の体を作る。そしてついでに「人のために米粒でも作ってやるか」ということで米粒を作る。

イネは偉い! 他の生物の命をいただくこともなく、他の生物の実や葉を横取りすることなく、一から十まですべて空気中の二酸化炭素、地下の水、そして太陽の光だけを使って、自分の体を作り、毎日生活するエネルギーを生産し、ついでに人間が可愛そうなので米粒を作って人間を養っている。

イネがそんなことができるのは、二酸化炭素を分解して炭素を取り出すことが出来るからで、この炭素で自分の体をつくり、エネルギーを得、さらには余った炭素を袋に詰めて米粒を生産する。

人間はなにもできない。二酸化炭素を分解して炭素を作ることもできず、暖房用のエネルギーも自分で作れないし、必須アミノ酸やビタミンなどもかつては自分の体の中で作っていたのに、もうその体内工場も閉鎖されてしまっている。

そこで、炭素は米粒から(炭化水素)、必須アミノ酸は動物を殺してその肉から、ビタミンは果物を採って食べる・・・という具合に、何から何まで他の生物に頼っている。イネが炭素を、豚がアミノ酸を、ミカンがビタミンを人間にくれるのに、人間はまるで主人のように威張っていて、平気でその命を奪う。

口では「命が大切」と言っているが、その実、上から目線で生物を痛めつけている。

私は「ダイエット」とか「ヘルシーな食事」、さらには「低カロリー食」という言葉を聞いてゾッとする。「人間って、こんなに恩を感じないものか!」と思うからだ。

私たち人間は欠陥生物で自分では何もできず、命を保つためにほとんどのものを「他の命」を頂いている。

「人間は万物の長」と誰が言ったのだろうか? 自分が誰の世話になっているのか何も分かっていないように思える。そして最近はそれがさらに極端になってきた。

「他の命をもらいすぎて太り気味だから、命をもらう数は同じにして、カロリーの少ないものを食べることが良いことだ」という人が多くなった。ダイエット指導とか、低カロリー食を勧めるのを聞くと、私は時として嫌になってしまう。

「太りすぎる」ということは「必要以上に命を頂いている」ということだから、深く反省して「命を頂く数を減らそう」と思うのがまともな人間というものだが、「食べる量を減らしたくない」という自分勝手な心があるので、「低カロリー食」が「ヘルシー」ということになる。自分のことだけだ。

ところで、「太ったシマウマはいない」というのは人間が太る原因が人間の「曲がった心」にあることはほぼわかっている。つまり、もともと「太る」ということ自体が「自分勝手な人間の大脳」が指令することなので、「太った人が、ヘルシーな食事を求める」というのは理にかなっているように思うのも脳が曲がっているからだ。

こういう人が、わがままな人、他がわからない人は何から何までそうなのだろう。そして、その人の生活習慣病になって寿命が短いというのはまさに天の配剤のように思える。

実は話があらぬ方向に行ったのが、私がここで整理したかったのは「ミジンコからマウスまで、そして人間も」腹八分目が飽食より寿命が1.5倍であるという事実は同じ種族だけではなく、生物全体で「他の命を少なくとるものほど長寿である」という原理原則があると思われる。

種族の間では「集団として意味のある個体が残る」という原理原則、生物全体では「生物全体の繁栄に寄与することが元気なもと」というのがあるようだ。それは遺伝子の構造からいってある意味で当然とも言える。そうしないと「なぜ、腹八分目」が「飽食」より長生きかということを合理的に説明することができない。

自分のことだけ考えてヘルシー食事をたらふく食べて、幸福になろうと言ってそれは無理だろう。

(平成27年2月13日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ



2015年2月20日金曜日

他を愛する心 その1 愛と寿命




「愛こそすべて」というけれど、本当かな?と思うこともある。愛と言えばそのほとんどが男女の愛だけれど、そんなもの単に動物的欲求で、生物の肉体的要求を、精神敵活動に変えただけではないかと斜めに見たくなる。

でも、私が動物の命、人間の生き様を見ると、実は「愛こそすべて」ではないかと感じることが多い。

哺乳動物は一夫多妻が多いが、この一夫多妻というのは普通、オスが憧れるように思うが、実はメスに有利なシステムだ。メスは子供を産むし、一匹あたり生むことが出来る子供が限られているので、一夫多妻ではメスを大切にして、もちろん殺すことなどない。

これに対してオスは一匹だけいればよいので、メス10匹に対して進化の結果、オスにボス争いをさせて一匹に絞る。戦いに負けたオスを「ハグレオス」というけれど、ハグレオスは寂しく集団から離れていく。ここで重要なのは、幸運にもボスオスになったオスとハグレたオスの遺伝子には差はなく、また必ずも強いオスが勝つとは限らない。戦いには運不運もあるからだ。

それなのに、遺伝子も同じなのに、ボスオスは長寿だが、ハグレると早く死ぬ。なんで遺伝子が同じなのに寿命が違うのだろう。むしろ、ボスオスは群れのメスを守ったり、食料を調達したり、かなり大変だが、ハグレれば自分の身と自分が食べるものだけなので、気楽なものだ。それでもハグレオスのほうがボスオスより早く死ぬ。

同じようなことがメスでも起こる。哺乳動物のメスは生理があるが、生理が終わるとメスは死ぬ。生きている意味を失うからだ。人間の女性は生理が終わっても「お世話をする」ことによって元気だが(そのうち、機会を見て人間の女性が閉経後も元気な理由を書きたいと思っている)、人間以外の動物の社会は複雑ではないから、生理が終わるとメスは寿命が尽きる。

ところで、人間で子供が病気がちだったり、一人で社会生活を送るのが難しいような場合、決まって母親は長寿である。やはり我が子を見なければならないということが母親の寿命を長くしているように見える。男性でも社会で活躍していたり、人のために働いている人は長寿だが、自分のことだけ考えたり、自分の健康に過度に注意をしている人は寿命が短い。

「愛」というのは「自分以外の他に献身する」ということで、それが我が子でも、孫でも、異性でも、自分の郷里の人たちでも、その違いが問題なのではなく、「他人」に自分以上の価値を見出すということだ。「愛があるものは長寿だ」と言えるのではないか?

そこでこの問題を少し深く考えてみる。

生物は何のために生きているのだろうか? まさか自分自身が生きるために生きているわけではない。生物の寿命はその生物が、その集団に献身するから命を頂いている。それと同じで、健康とはなんだろうか? 自分が自分のために生きていて誰が自分を健康にしてくれるのだろうか? そんな人はいないし、生物は「無機物」ではないから、その寿命は物理的に決まるものではない。

そう考えると、「健康になる」というのは体を鍛えることでも、栄養のバランスを取ることでもなく、まさに「愛の心を持つ」ことであり、運動や栄養というのは補助的なものだろう。・・・ここまで整理してまた少し前に進みたい。

(平成27年2月11日)

(出典:武田邦彦(中部大学)ブログ




2014年7月20日日曜日

STAP事件後日譚・・・醜悪な理研と毎日新聞



どうしたことでしょうか?毎日新聞の特定の女性記者のようですが、毎日のように小保方さんをバッシングする記事を出しています。すでにSTAP事件は理研が「調査委員会を再開しない」と発表して一段落しています。


もともと、この事件は理研(小保方さんではない)が大々的に記者会見をしたことで世間の注目を浴びたものですが、その後、論文に疑義が生じ、社会的な話題を集めました。そして理研が2回、小保方さんが1回、笹井さんが1回記者会見を行い、それぞれ違った見解を示しています。


そして理研が調査委員会を開かないことを表明し、お互いに情報戦は終わりになっています。また小保方さんは法律に違反した犯罪人でもなく、タレントでもありません。単なる一般人の一個人です。


ところが、最近、どういう意図を持っているのかは不明ですが、「すでに終わったことで、一般人」なのに、毎日のように毎日新聞から「理研がリークした小保方さんに不利なこと」が報道されています。


その内容は小保方さん(2013年正式社員で入社一年目)の責任とは考えられない予算の使い方の不都合、論文のさらなるミス(”ミス“としたほうが間違いと思うが)、採用の時の問題(小保方さんに関係がないが印象を悪くすることは確か)などです。


くり返しますが、まず、第一に小保方さんは犯罪人でも、タレントでもなく、普通の一般人で研究者で、しかも理研の従業員です。騒ぎになったのは、単にマスコミが理研の記者会見に幻惑されて1月末に報道しすぎたというだけのことです。彼女の論文に科学的な興味を感じて読んだ人は少ないと思います。多くの人が単にスキャンダルとして見ているのが現状です。


毎日新聞というのは全国紙で、その発信力は絶大です。その絶大な発信力を使って犯罪人でもタレントでもない一個人をここまで執拗にバッシングする意図はどこにあるのでしょうか?


まず、この行為は「社会正義」ではありません。社会正義の最も基礎的なものは「法律」ですから、放送法第四条のように巨大マスコミは「意見の違う時には多角的に」というのが原則ですから、理研の方の情報に重きを置くのは問題です。


また、オウム真理教の松本事件の時に、普通の人がマスコミによって犯人に仕立て上げられたことをキッカケに、一般人の報道についてはかなり改善されてきたのに、小保方さんの件になると、まるで「小保方さんは刑事事件の犯人だ」といわんばかりの報道姿勢です。


コピペにしても、写真の誤用にしても、むしろコピペの方が著作権法に合致しているのですから、法令を守って村の掟を破った人を村の掟を重視する側に大新聞がつくのは不見識です。


放送は中止になりましたが、小保方さんの名前をもじって彼女の人格を傷つけようとしたテレビ局もあり、日本社会が「法律に基づかないリンチ」=子どものイジメとなんら変わりない・・・という状態にあるのは残念です。


また、「理研の規則」のうち、他人の文章をコピペしたことを「盗用」としているのは、理研の規則が法令に違反しているのですから、「理研の規則で罰せられたのだから有罪だ」などということも無く、むしろ法令に違反する規則を決めて、従業員を罰っしようとしている理研の方に辛い姿勢を取らなければならないでしょう。


このように見て行くと、毎日新聞の報道姿勢は、「法令に元ずく正義を軽んじ、自分たちの村の掟、日本の空気、個人のバッシング、イジメを優先する」という実に醜悪なものであることが判ります。


即刻、これまでの報道態度についての見解を示し、軌道修正することを求めます.こんなことではどんな社会問題も解決せず、こじれるだけで日本の大新聞としての存在価値がなくなります。

(平成26年5月28日)

武田邦彦

(出典:武田邦彦先生のブログ





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